いざよい秋入梅

 夜の帳が降りた世界に歌声が響く。心地良いその声は幼かった自分にその歌声は安心感をもたらした。 それはなんという歌なのか、と問えば肩越しに振り返った相手が微笑む。
「これはね、君のための歌だよ」
 いたずらっぽく笑う相手にからかわれたとわかり、顔を顰めて睨めば肩を揺らして笑われた。
「本当はね――」
 繋いた手は大きくて温かくて、大きな背中は広くて逞しく、大好きだった。
 あの時、聞いた歌も教えてもらったのだが、今では歌の名前も歌も忘れてしまった。
 
 あの雨の日、あの歌声を聞くその日までは――。  

 
◇◇◇

 

 紅葉に彩られた山は白く靄がかかり、厚い雲に覆われた空からとめどなく雨が降りしきっていた。空から落ちてきた雫は他の雫と合わさり、大きな水滴として不協和音な音色を奏でて響かせる。
 山の麓にある神代(かみしろ)高校の昇降口にて、真之(さねゆき)は降りしきる雨を無感動に眺めていた。もとよりくせ毛のある黒髪は湿気もあって見事に自由奔放に跳ねており、顔には不釣合な黒い大きなフレーム眼鏡が彼を更に野暮ったく見せている。レンズの向こう側には不機嫌そうな瞳が覗かせ、沈黙を保つスマートフォンをしばし眺めていたが鞄にしまう。壁に立てかけていた傘を手に取ると、しっとりと濡れた地へと一歩踏み出した。
 本来なら、クラスメイトである二人と帰る予定だったのだが、昇降口に向かう途中で上級生に呼び止められるとどこかへと行ってしまった。待っていようかと思ったがいつ戻ってくるかもわからず、先に帰るというメールを送ると降りしきる雨のなかを歩き出したのだった。
 雨に包まれた田んぼ道を歩きながら、家に帰り着いてからのことを考える。いつもは騒がしいためにこうして、一人で考え事をしながら帰途につくのは随分と久しい。そのため、しんっと静まり返った辺りにその声は雨音に混じって真之の耳へと届いた。
 ぴたりと足を止めれば、かすかに歌声が聞こえてくる。その方向に顔を向けると石段の続く長い階段の先に赤い鳥居が見えた。階段の登り口の横には年季の入った『暮簿(くれぼ)神社』と書かれている石碑が目に入る。
 暮簿神社は神代市という名がつけられるもっと昔、それこそ村の時からここに住む農民たちから信仰されている神が祀られている由緒ある神社である。しかし、今ではめっきり参拝客も減り、特に催事がないかぎりは、賑わうような場所でもなくなってしまった。ましてやこんな足場の悪い雨の日である。熱心な信者でもないかぎり人などいないだろう。
 普段ならそそくさとその場を後にしたところだ。怪談や心霊といった非科学的なものが真之は大の字がつくほど苦手であった。怪談話を聞けばその日は一人でいることが怖い。面白半分で肝試しに参加することもできなければ、人口とわかっていてもお化け屋敷も入ることも足が竦んで出来ないでいる。最初の頃は周囲の子供たちはそんな真之を怖がりとからかっていたが、あまりの怯えようにいつしか茶化すこともなくなった。
 しかし、気づけば足は無意識に鳥居へと続く階段を上りはじめていた。胸はうるさいくらに音を立て、正直言えば怖い。帰りたい。それでも、何かに導かれるかのように踵を返すことができずにいる。
 階段を上りきると色が剥げた赤い鳥居が出迎えた。石畳が続き左手には手水舎があり、真っ直ぐに続く石畳の先に拝殿が重々しく存在を醸し出していた。境内には人の姿はなく、歌は拝殿とはそれるように続く道の先、摂社から聞こえているようだ。
 
「摂社には白露の大樹という木があって、とても美しい白露という神様がその大樹に降り立ったことからその名前がついたそうですよ。そのため、美の御利益があるとかで女性の間で話題になっているそうです」
 
 最近よくみるようになった参拝客を不思議そうに見ていた時に、友人がこぼした言葉を思い出す。来たからにはと拝殿でお参りを済ませてから、摂社へと続く道へ歩を進める。途中から雑木林の道を抜けると大きな大樹が姿を表した。白露の大樹だ。いくつも並ぶ小さな赤い鳥居の向こう側には摂社がひっそりと佇んでいたが、こちらも人の姿はなかった。
「誰もいない……?」
 だが、声はすぐ側から聞こえる。上へと視線を向けると、白露の大樹が伸ばす太い枝に一人青年が座っていた。
 きつね色の髪には和紙で作られたらしい狐の面が斜めにつけている。橙黄色の単の上からは真っ白な狩衣を身にまとい、左手にはずいぶんと古びた紐を通した鈴が動きに合わせて音を奏で、右手には大きな蓮の葉が彼を落ちてくる水滴から彼を守っていた。一目みるからに今の時代に似合わない不審者だ。
 目を閉じて心地よい歌声を披露する彼は真之の存在には気づいていない様子だった。
 思わず聞き入りそうだったが、彼がいる位置は人が木に登って座れる場所ではないことに気がつく。すると突然と酔いから醒めるかのように、はっきりと意識が明確になってくる。
 (人じゃない……?)
 脳が言葉を理解すると同時に足元から悪寒が駆け上がり、足下が急に不安定になったように上手く立てているのかわからなくなる。指先からは熱が奪われ、全体の体温が下がった。今すぐにでも視線を青年から逸らしたいのに、外すことが許されないかのように一点を見つめたまま無意識に後ずさりしていたらしく、足はすぐに縺れその場に尻もちをついてしまった。
 その場を乱す物音に金色にも赤にも見える瞳が真之を捉えると同時に歌はやんでしまった。
 しばらく、互いを見つめ合ったまま沈黙が続く。こういう時、あちら側にこちらが見えていると知られてはいけないと聞くが、視線をそらすことができない。雨音だけがその場を満たす中、真之の心臓の音がうるさく加わった。
 お互いに相手の動きを見定めるように動きが止まっていた中で先に動いたのは青年の方だった。彼はかなりの高さがあるというのに重さを感じない軽やかさで飛び降りると、真之の前まで歩を進めると少し腰を屈めて手を差し出した。
「君は僕が見えているようだね」
 言葉を返す代わりに逸らされることない視線に相手は是ととったらしい。片手を顎にあてながら、何か考えている素振りをする彼は衣装こそは時代錯誤を感じるものの、人と変わりない。思わずまじまじと見つめていると、彼はにっこりと微笑んだ。
「君には僕が見えている。どうしようかな、まさか人間に見られたとは。……そうだ」
 細められ複雑な色をした目がきゅっと妖しく輝く。
「いっそ、君を食べちゃおうか?」
 目の前に顔を近づけて彼は愉快そうに告げた。それからこちらに伸びる手に真之は今まで感じたことのない恐怖を感じた。反射的にその手を払い、震える体に無理やり力を入れると砂利に散らかした荷物を手に入口へと走り出す。後ろを振り返る勇気はない。雨とは違うものが真之の視界を滲ませた。
 あっという間に姿を消してしまった青年に彼は唖然としてその背を見送った。ちょっとした悪戯心だったのだが、自分が思っていたよりも怖がらせてしまったらしい。見開かれた瞳の奥に見た色を思い出して、がりがりと頭をかく。
「悪いことをしちゃったな。ちょっとした冗談だったのつもりだったんだけど」
 鳥居の外へと向けていた視線を彼のいた場所へと向ける。彼が来るまでにはなかったものが落ちていた。手に取ったそれはお守りで表に刺繍されているはずの文字は何もなかった。古いらしく生地は擦れており、色もくすんでいる。裏面を向ければ辛うじて読めるぐらいの状態で『暮簿神社』と読めた。
 
 
 
「和泉くん?」
 聞きなれた声が耳に届く。はっとしたようにそちらに目を向ければいつも一緒に帰っている友人たちの姿があった。二人とも真之の様子に驚いた表情を浮かべていたが、ただならぬ雰囲気を察したのか困惑したようにこちらに駆け寄ってくる。
「ちょっ、真之くんどうしたの? 傘を開いていてもささないで。ちょっと待って、今タオル貸すから……」
「和泉くん、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ。それに神社から降りてきてなにか用があったのですか?」
「~~~~っ」
 ただならぬ様子の真之にあれこれと声をかけてくれる友人たちに、張り詰めていた糸が切れるのを感じる。堰をきったように溢れだした涙を見られたくて濡れるのも構わずにその場にしゃがみ込む。
 いつもの日常に戻ってこられたような気がした。

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